第3回 ブログ版 郷土史講座「満濃池シリーズ2」

今年の「夏至」は、6月21日㈰でしたね。

二十四節季の一つで、北半球では一年で最も太陽の位置が高くなり、昼の時間が長い日です。

夏の中間であることから、「夏の頂点」と言われたりもするそうですが、確かに毎日暑いですよね。

マスクを着けたままでは一層暑さが堪えますが、体調管理に気をつけたいですね。

さて、大人気シリーズのブログ版「郷土史講座」も、いよいよ3回目に進みます。

講師は、お馴染みの片岡孝暢さんです。

 

第3回ブログ版 「郷土史講座」 ~ 満濃池シリ-ズ2 ~

 <「萬濃池 池宮」の絵図を見ての追究学習>

前回、「萬濃池 池宮」の絵図を見ての素朴な疑問や予想について、太郎くんと花子さんの対話、問答形式で記載しました。今回は、宿題にしていた神野神社のことや対話中の事項について、さらにお互いが勉強したやりとりを行います。(第2回も見てくださいね。)

 

太郎くん:宿題やってきた?

花子さん:図書館やインタ-ネットで調べたけど、神野神社の祭神の読み方が難しかったわ。でも、満濃池の堤に立って、絵図と景色を重ね合わせ、江戸時代に想いを馳せながら観てみると楽しかったわ!

太郎くん:僕は図書館から本を借りて調べたよ。

 

 神野神社について

花子さん:神野神社は延喜式内讃岐国二十四社の一つだそうだけど、どういう意味なの?

太郎くん:10世紀初め、朝廷から官社として認められた格式ある神社のことだよ。

花子さん:神様がたくさん祀られているけど、どのような由緒があるの?

太郎くん:罔象女命(みずはめのみこと)は美豆波能賣命とも書き、水の神だね。絵図の右手に見える九十九谷がある所の尾根筋先に天真名井(湧水)があり、そこに祀っていたみたいだね。それを、大宝年間(701~704)の池の築造のとき、堤の所に遷したようだよ。

花子さん:なるほどね。でも、その時そのあたりには、天照大御神の御子の稲穂神である天穂日命(あめのほひのみこと)を祀った神社がすでにあったの?

太郎くん:よくわからないけど、この2つの神と社が、弘仁年間(810~823)に、満濃池の築造とともに一緒になり、池の守護神(池の宮)になったみたいだね。

花子さん:そしたら、『新修満濃町誌』に書いてあったけど、大同3年(808)、矢原正久が満濃池地を流れていた金倉川の源流を鎮め治めるために、蛇谷の上の堂跡ケ峯(現在地から数百m東)に祀られた別雷神(わけいかづちのかみ)は、どうなったの?

太郎くん:嘉永5年(1628)、西嶋八兵衛が池の再築をするとき、池の宮の社殿を造営し、その際、別雷神も当社に遷し、三神・社が一つになったようだよ。

でも、天穂日命を祀った社はだれが、いつ頃、創祀したのか、つまり、神櫛王なのか、その子孫という矢原氏なのか、伊予から移住してきた御村別の子孫なのか、それとも氏人なのか疑問のままだよ。神話の世界の話であり伝承かもしれないけど、大和朝廷と何らかの関係があったと思うよ。

花子さん:ところで、池の宮が神野神社という言い方になったのはいつ頃?

太郎くん:明治維新のときの社名改でなったそうだよ。下の写真①が現在の神野神社だよ。

(写真① 神野神社 本人撮影)

(『香川県神社誌』『新修満濃町誌』『讃岐国名勝図会』『仲多度郡史』を参照)

 

◇ ウテメについて

太郎くん:余水吐(よすいばけ)のことで、岩床が手斧(ちょうな)で削ったように平坦にできており、お手斧岩(おちょうないわ)とも呼ばれているそうだよ。

花子さん:今は、余水吐はどこにあるの? かりん亭の真下に見えるコンクリ-トでできた溝のような所かな?

太郎くん:そうだよ。だから、内側が堤より少し低くなっているよね。明治39年の第一次嵩上げ工事に伴い、堤防の東端に移設されたそうだ。(写真②)放水工の水路床は花崗岩を露出した状態にあえてしているそうだよ。(写真③)

(写真② 現在の余水吐、本人撮影)

(写真③ 放水工、本人撮影)

花子さん:だから、満水の時は水が流れ、水しぶきがたち、まるで竜が暴れているように見えるのね。めったに見えないので、まるで幻の滝ね。

(『満濃池史』満濃池土地改良区、『満濃池名勝調査報告書』町教育委員会を参照)

 

◇ ゆる(揺、閘)について

太郎くん:江戸時代は、下の写真④(満濃池堤防断面図/閘の模型)のようになっていたみたいだね。大正時代までは木製だったので、腐りやすく、数十年ごとに取り替えしなければならず、莫大な費用と人手を必用としたようだよ。

(写真④ 満濃池堤防断面図/閘の模型(かりん会館展示物)、かりん会館提供)

 

花子さん:絵図に見えていたのは、その木製の竪樋(たてひ)の一番上の櫓(やぐら)かしら。かりん会館に、大正3(1914)赤レンガ配水塔の新設まで使用した「閘の敷板と筆木」が展示されていたわ。(写真⑤)

(写真⑤ 敷板と筆木、かりん会館提供)

太郎くん:このゆる(竪樋)は、水を上の櫓から順番に抜くようになっており、今の取水塔も同じで上から順番に抜いているんだよ。

花子さん:でも、どうして上から順番に抜くの?

太郎くん:それは、稲にとって良いあたたかい水をできるだけ田畑に送りたいし、しかも池の下(底)の方は泥水になっており管が詰まりやすいかもしれないしね。

花子さん:なるほど、工夫されているのね。それにしても、底樋は堤の下の方に作らないといけないから大変ね。

太郎くん:そうだね。そこで、嘉永2年(1849)那珂郡榎井村(現琴平町榎井)の庄屋であった長谷川喜平次が、負担軽減(民、百姓のことも考えて)のため、木の底樋を半永久的な石樋にすることを提案し、幕府の許可も得て工事が着工されたそうだ。そして彼自身、私財も投じたそうだよ。

花子さん:先見の明があって、素晴らしい方ね!

 

◇ 神野寺跡について

太郎くん:弘仁12年(821)、空海によって建立されたそうだよ。その後、寺は社と合わせて矢原氏の勧請を受けて繁栄していたそうだよ。

花子さん:そしたら、なぜ廃寺になったの?

太郎くん:天正12年(1584)、長宗我部軍に焼き払われ、荒廃したままだったようだね。

花子さん:でも、どうして焼き払われたの?

太郎くん:矢原氏の領地は、長宗我部元親にとって自分の四国戦略のための拠点である白地(阿波)と西長尾城をつなげるルートになっているから、どうしても確保しておきたかったと考えられるね。

花子さん:そしたら、現在地の神野寺になったのはいつ頃?

太郎くん:昭和8年に堂宇が建立され、昭和28年、取水塔の手前の森の所から本堂が現在地に移転したそうだよ。 (『同上町誌』、「金銅製灯籠笠銘」、聞き取りを参照)

花子さん:自分の近くの神社やお寺、池の揺などについても調べてみると、いろんな再発見があるかもしれないわね。

太郎くん:そうだね。次回は、満濃池の主な歴史年表を一緒に作ってみよう。

参考資料:

①『新修満濃町誌』満濃町誌編纂委員会 編 満濃町(2632マ)

②『満濃池史<満濃池土地改良区五十周年記念誌>』ワーク・アイ編 満濃池土地改良区(6146マ)

③『満濃池名勝調査報告書<まんのう町内名勝調査報告書第1集>』まんのう町教育委員会、生涯学習課、文化財室 著 まんのう町教育委員会(2918マ)

④『香川県神社誌』香川県神職会 編

⑤『讃岐国名勝圖會』梶原景紹 著 臨川書店

⑥『仲多度郡史』香川県仲多度郡 編 名著出版

※ 上記①~③の資料は、まんのう町立図書館に所蔵しております。

 

掘り下げれば掘り下げるほどに、新たな謎が出てくる…。

歴史研究は、浪漫にあふれていますね。

片岡さん、ありがとうございました。

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