第4回 ブログ版 郷土史講座「満濃池シリーズ3」

師走に入り、季節はすっかり冬になりましたね。

遠くへ“Go To”できない方も、近場で散策や史跡巡りなどを楽しんでみてはいかがでしょう。

本日も、そんな「ちょい旅」にぴったりな、郷土史講座のお時間です (^_-)-☆

講師はお馴染み、片岡孝暢さんです。

 

第4回ブログ版 「郷土史講座」 ~満濃池シリ-ズ3~

 

<満濃池の主な歴史年表を見ての探究学習>

今回は、太郎くんと花子さんが協力して、満濃池の主な歴史(江戸時代初期まで)を年表にしました。下の年表がそれです。

 

◇ この作成した年表を見て、二人が対話・問答を行いました。

花子さん:701年って、何時代、国では政治面で、どんなことが起きた年なの?

太郎くん:奈良時代の前の白鳳時代かな、その年は大宝律令が制定された年だったと、     中学校の歴史の教科書に書いてあったよ。

花子さん:そしたら、国守(こくしゅ)ってどういう意味?

太郎くん:朝廷から地方へ派遣され、その地を治めた国司(官吏、役人)の長官のこと     だよ。今でいうなら、知事さんみたいな役職の人かな?

花子さん:道守朝臣はどういう方なの?

太郎くん:『日本書紀』のなかに、天武天皇13年(684)、道守臣(ちもりのおみ)が朝臣(あそみ)の姓を賜ったと記されており、『古事記』のなかには、建内の宿禰(たけのうちのすくね/武内宿禰)が大陸から渡来した人びとを率いてため池を作ったと記されている。だから、この頃ため池築造の技術もあったと思うし、建内の宿禰と道守朝臣との間に、池の築造に関して何らかの関係があったのかもしれないね?また、この時、この地域の豪族であった御村別の子孫(伊予から移住)か、もしくは矢原氏の先祖がこの池の築造にかかわっていたかもしれないね。

どちらにしても、讃岐国の国司の史料上の確実な初見は『続日本紀』「和同元年(708)」に出てくる大伴宿禰道足なので、「満濃池後碑文」の記録だけでは、道守朝臣を国司と認めることは難しいそうだよ。(『日本書紀』「天武天皇下」、『古事記』「応神天皇」『続日本紀』「元明天皇」の各項を参照)

 

花子さん:満濃池ができる前は、ここはどうなっていたのかな? 人が住んでいたの?

太郎くん:縄文時代や弥生時代、古墳時代、人々がここで暮らしていたと思うよ。南側の多くの湾が入り組んでいるあたりは砂層で、湧水(天真名井)があり、その水や谷水、金倉川の水を使って、稲作が行われていた。もともと金倉川が浸食してできた広い谷の、狭い断崖に堤防を築いてできたのが満濃池だから。

太郎くん:だから、縄文期の石器や弥生期の土師器、古墳中期以降の須恵器、またサヌカイト片も発見されているし、窯跡(写真①)や古墳跡(写真②)も見つかったらしいよ。(案内板:満濃町教育員会、『満濃池名勝調査報告書』を参照)

(写真① 神野1号窯跡・本人撮影)

(写真② 神野箱式石棺・本人撮影)

 

花子さん:そしたら、どうしてここに大きな池を作る必要があったの?

太郎くん:それは、讃岐国の丸亀平野の条里制の整備とともに、水田への多量の水が必要だったと思うよ。池の水を引くかんがい工事が大変だけど、満濃池の場合は金倉川を用水路としてうまく利用したのだろうね。

花子さん:この頃、讃岐国以外でも、ため池の築造やかんがい工事をしていたのかな?

太郎くん朝廷は、班田収受法を定め公地公民制を確立し、各国に国司を派遣し、「国々の堤を築くべき所、水路を掘るべき所、開墾すべき所は公平に与えて工事させよ」と命令を下していたようだ。(現代語訳『日本書紀』「孝徳天皇」の項を引用)

 花子さん:この年表中でも、洪水で堤防が3回も決壊しているわね。

太郎くん:そうだね。丈夫な堤防を造るのは難しいということだね。池は農業用水を確保するという役割だけでなく、洪水を防ぐ治水という意味もあるのだね。

 花子さん:ところで、満濃池を再築した空海さんは、どんなところがすごいの?

太郎くん:空海は中国(唐)で仏教を学ぶだけでなく、土木工事にも精通していたそうだよ。また、多くの百姓たちから慕われており、空海のためなら力を惜しむことなく共に働いてくれるという信頼があったみたいだね。そして、堤防造りにおいてが3つの優れた点があったといわれているよ。まず、堤の内側を水圧防止のために弧(ア-チ状)を描いて造ったこと、次に洪水時の堤防の決壊を防ぐ目的で、岩盤を削り(余水吐)を設けたこと、最後に護岸を強固にするために柵(水たたき)を設けたということ、だそうだよ。(『満濃池史』を引用)

花子さん:なるほど。今の堤防築造の方法や工夫点と基本的には同じね。あの時代、すでに考えていたとはすごいわ。

 

花子さん:弘仁12年、空海さんが矢原邸(跡/写真③)に来た時、花梨(写真④矢原邸の森)を持参したそうだけど、太郎くんはなぜ「かりん」だったと思う?

 

太郎くん:「かりん」は今でも喉飴に使用しているけど、たぶん薬用のためだと思うよ。中国の栽培地域と気候風土が合っていたのもよかったと思うね。現在は、町木にもなっているね。

花子さん:空海さん(写真⑤)が護摩壇岩(写真⑥)で、護摩を焚いて祈願をしたそうだけど、何を祈願したのかな?

 

太郎くん:護摩を焚き修法を行ったようだ。護岸工事の安全祈願をしたようだけど、僕は雨乞い祈願もしたのではないのかなと思っているよ。満濃池には竜神伝説(『今昔物語』)があるけど、僕は池に棲む竜を水の底から呼び起こし、「昇り竜」のごとく天に立ち登らせ、天の神と交わらせ、雨を降らせる(降り竜)陰陽合体の修法ではないかと考えているよ。

花子さん:そう言えば、綾子踊を見たとき、「昇竜と降竜」や「善女龍王」ののぼりが立っていたわね。

太郎くん:踊(昇竜、降竜)には、雨乞いに対する祈願と感謝の意味もあると思うよ。また、天長元年(824)、弘法大師が京都の神泉苑で請雨経法を行ったとき、「善如(女)竜王」が現れ、この修法によって効験あるだろうと示された、と『今昔物語』に記されているよ。

花子さん:1184年に堤防が決壊してから、どうして450年もの間放置されていたの?

太郎くん:予想だけど、満濃池の水掛かりは広範囲にわたっており、鎌倉時代や室町時代は、江戸幕府のように地方の組織がまだまだ不十分で、南北朝の動乱期や戦国時代は、讃岐武士も戦に参戦し、それどころではなかったのではないかな?

花子さん:1628年、西嶋八兵衛さんが再築したとき、池内村の人々はどうなったの?

太郎くん:そうだね。家屋や水田は水に埋まってしまい池内では居られないから、どこかへ立ちのきになったと思うよ。

花子さん:どのあたりに移ったのかしら?何か補償でもしてくれたのかしら?

太郎くん:難しい質問だね。次回までに、西嶋八兵衛のことと合わせてお互いに調べてみよう!

 

参考資料

※上記①~④の資料は、まんのう町立図書館に所蔵されています。また、⑤、⑥の資料は香川県立図書館所蔵なので、町立図書館で借りていただけます。

知れば知るほど、奥が深くなるのが歴史なんですね。

片岡さん、ありがとうございました。

 

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