第7回 ブログ版 郷土史講座「満濃池シリーズ6」

春一番が吹いたかと思えば、桜の花が驚いて開いてしまうのではないかと思うほどの陽気が続いていますね。

もともと気候が穏やかな香川県でも、長い歴史の中では、地震や干ばつなど様々な災害と戦ってきた過去がありますよね。

本日の郷土史講座は、満濃池と地震のお話です。

片岡さん、よろしくお願いします。

第7回ブログ版 「郷土史講座」 ~満濃池シリ-ズ6~

<嘉永7年・安政元年の地震による満濃池決壊の状況とその対応>

今回は、太郎くんと花子さんが協力して、満濃池の堤が嘉永7年・安政元年、決壊したときの状況や対応が分かる資料①~④と、参考資料を探しました。これについての二人の「対話・問答」です。

 

 

太郎くん:嘉永7年(1854)は、11月27日安政元年に改元しているから、満濃池の決壊年月日を「嘉永7年7月9日」、あるいは「安政元年7月9日」とする場合があるようだね。

花子さん:今年、5月1日に平成31年から令和元年に改元したのと同じね。

花子さん:ところで、資料①からは、どんなことが分かるの?

太郎くん:満濃池が決壊したとき、満濃池から一里(約4km)程の金毘羅の阿波町や金山寺町などは床上浸水となり、五条村や榎井村の往来の人の乳あたりまで水がきたようだ。そして、家は流されその水は丸亀町口(丸亀市の中府町あたり)まで流れて行ったようだね。

花子さん:資料②からは、満濃池の水かさが4合目まで溜まっていた、池尻の池守宅も     流され、死人も出たと書いてあるわね。そして、金刀比羅の鞘橋も流されそうになったみたいね。

太郎くん:資料によっては、当時の満濃池の水かさが1合目、4合目と違うけど、もし満水であった場合はどうなっていたのだろう?

花子さん:被害が想像できないわね。

太郎くん:南海トラフの大地震が何十年か後に起きると云われているけど、万が一今起きたら、堤が決壊するかもしれない。すると、満水の場合、現在の貯水容量は1,540万㎥あり、当時の貯水容量を584.6万㎥(第一次嵩上げ前)とするなら、約3倍になるよね。池が満水のとき、地震で決壊することを想定したら、すごい被害になることが予想されるね。

花子さん:当時、被害があまり少なかったのはどうして?

太郎くん:貯水量が少なかったからかもしれないけど、資料③④から、人的な対応として、樋外の石垣から濁水が流れているのを、池守がいち早く発見したから、連絡・対応が少しでも早くできたのだと思うよ。池守の方は、日ごろから池の状況を見守っている責任感のある方だと思うね。

花子さん:そうね。このことは、今の私たちにも言えることだし、学ぶべきことだわね。

太郎くん:芳澤直起氏は、資料③を提示し、「漏水の発見後、早々に周辺の住民に周知され、警戒できた事により、幾分か対応する時間ができ、被害を最小限に押さえる事ができたとも考えられる」と言われる。確かに、僕もその通りだと思うよ。

花子さん:ところで、この満濃池の決壊の原因はこのときの地震で堤防の地盤が緩んだものなの、あるいは底樋を木樋から石碑に変えた普請工事のずさんさからなの?

太郎くん:先に挙げた芳澤氏によれば、普請工事の工法に問題があり、地震は一つの契機であり、満濃池は万全の状態ではなかったから崩壊したという。(工事の不十分さに関係する資料を掲示した上で)

花子さん:下の絵図①が底樋を木樋から石碑にしたときの、嘉永年間(1848~54)の工事の様子ね。堤中央の底の所が石造りになっているのが分かるわ。そして、堤左手の神野神社前には池御料(御用の旗)の小屋が建ち、反対側の右手には、高松藩や丸亀藩の旗印が見えるわ。堤上にはお役人が立ち、堤下にはとてもたくさんの人が働いているわ。とても多くの人手が必要なのね。

太郎くん:そうだよ。このとき(嘉永5年)の底樋後半部の石樋仕替人夫は、総数376,400人となっている。池普請は農繁期の百姓にとって負担が大きく、「行こうか、まんしょうか、満濃の普請、百姓泣かせの池普請」という里謡が残っているくらいだから。

 

 

太郎くん:上記の資料④とこの絵図①を関連させ整理してみると、この普請工事が嘉永6年(1853)11月に終わり、翌年の6月14日讃岐地方に地震が発生、7月5日堤防の漏水を発見し、7月9日に決壊した、ということになるよ。

花子さん:資料①にも書いてあるけど、底樋の石を2年かけ丹誠を込めて築いたものが、一瞬に壊れ流されてしまったのね。本当に残念でならないし、とてもつらかったと思うわ。

太郎くん:でも、僕も田中健二氏が言うように、長谷川喜平次が底樋を木樋から石碑に替えることを主導したわけであり、確かに普請工事のまずさに原因があるかもしれないけど、彼の提案は石の水道の先駆けであったことを強調したいね。

花子さん:決壊したときの、底樋の石材が発見され、現在「かりん会館」の玄関入口前の所に“歴史の証人”として展示されているわね。(下の写真①、②)

 

 

筆者:参考までに、嘉永7年、安政元年は、伊賀上野地震(旧暦6月15日/新暦7月9日:M7.4)、安政南海地震(旧暦11月5日/新暦12月24日:M8.4)が起きている年です。今年は、この地震から約170年経つようです。

現在県内の届け出対象となるため池は、14,614カ所あるそうです。そのうち、民間所有のものが6,312カ所、豪雨によるため池決壊の可能性があるため、防災上安全管理(貯水量や堤防の高さなどの報告、自己管理等)の必要性が問われているようです。 (令和2年(2020)7月5日付『四国新聞』より引用)

また、ため池の存在意義について、次のようなTV番組がありました。ため池があるから、そして池には一人ひとりの池管理(水を溢れないように適宜抜き、堤体が崩れないように草刈りをするなど)者がいるからこそ、下流地域の人が安心して暮らせるということに感謝しなくてはならない。(NHK「ゆう6かがわ」『ため池災害への備え』令和2年11月16日放映より)

 

香川県はため池が多いことでも知られていますが、歴史に学ぶことは本当にたくさんありますね。

片岡さん、貴重なお話をありがとうございました。

 

町立図書館では、講師の片岡さんが挿絵を描かれた、満濃池の龍神伝説の紙芝居を展示しております。

 

満濃池の伝説を、味わい深い絵とともにお楽しみください。

全文は、第5回 ブログ版 郷土史講座でご覧になれます。

 

 

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