第8回 ブログ版 郷土史講座「満濃池シリーズ7」

日ごと気温もぐんぐん上がり、「春爛漫」といった陽気ですね。

まんのう町でも、菜の花が黄色い絨毯をあちこちで広げ、桜が花開くのを待っているようですね。

今年は “いつも通り” のお花見はできませんが、それでもお散歩やドライブの途中に、咲き誇った花を愛でて、春のおすそ分けを頂くくらいはいいですよね。

歴史散策にも絶好の季節ですが、時節柄、大勢でツアーを組むようなことはできませんので、このブログ版「郷土史講座」で、しばし歴史のロマンに浸ってください。

講師は、片岡孝暢さんです。

第8回ブログ版 「郷土史講座」 ~満濃池シリ-ズ7~

<明治初期の満濃池修築功労者人物伝>

今回は、嘉永七年・安政元年の満濃池の決壊後、長谷川喜平治の意志を継いで、池の修築にあたって尽力された方々の功績を、太郎君と花子さんの「対話・問答」を聞きながらお互い考えてみましょう。

太郎くん:『新修満濃町誌』の中の「神野神社」の項に、江戸時代末期から明治時代初頭にかけての人物が、境内社の祭神として記載されており、それが次の5名の方だよ。

松崎渋右衛門・長谷川佐太郎・軒原庄蔵・和泉虎太郎・島田泰雄

花子さん:すると、この方々は、満濃池に多大なる功績を残したのね。

太郎くん:そうだよ。だから、石碑が堤のところに建っている方もいるね。満濃池大修築が完成したのは、簡単に言うと、民間の和泉虎太郎、長谷川佐太郎らの熱心な陳情、官側(行政)の松崎渋右衛門、島田泰雄らの協力、そして底樋の隧道をくりぬいた技術者の軒原庄蔵らのスクラムがあっての賜物だと言えるね。

それでは、功労者の方々の実績を簡単に紹介しよう。

 

花子さん:堤の東端の休憩所の傍に大きな石碑が建っているけど、この方の業績を書いてあるのかしら?(写真①)

写真① 松坡長谷川翁功徳之碑    (本人撮影)

写真② 長谷川佐太郎旧家(琴平町榎井)        (本人撮影)

 

 

 

 

 

太郎くん:「松坡長谷川翁功徳之碑」だね。題字は明治の元勲山縣有朋が、撰文は品川弥次郎によるもので、二人とも長州(山口県)の出身。たぶん、幕末に長州藩の桂小五郎や高杉晋作が琴平に逃げて来たときに、長谷川佐太郎がかくまった縁かもしれないね。

花子さん:書いてある内容も難しいわね。

 

太郎くん:後半の修築に関わる内容は後にゆずるとして、前半の読み下しは、「志を道とし、據(よりどころ)を徳とし、依を仁とし、遊を藝とするは、蓋し長谷川翁の謂いなり。翁の名は信之、字は忠卿(たださと)、號(よびな/雅号)は松坡(しょうは)、佐太郎と称す。讃岐国那珂郡榎井村の豪農にして、考の諱(いみな)は和信、妣は為光氏。翁は人となりて温良、義気有りて、好んで人の急を救う。・・・」だそうだ。

花子さん:人の呼び方、言い方が勉強になるわね。人柄もよくわかったわ。ところで、彼はどんな事をしたの?

太郎くん:彼は日柳燕石や美馬君田らと交遊し、勤皇派であった。満濃池の決壊後、水掛かりが高松、丸亀、多度津の三藩にまたがり、一部天領も含まれていたため、意見が一致しないまま16年間放置されていたそうだ。そこで、彼は榎井村百姓総代(写真②)として、農民たちの窮状を訴える嘆願を度々行ったそうだ。倉敷の弁事伝達所や各藩の間を奔走するが、目的が果たせないまま幕府は崩壊した。慶応4年9月8日、年号が明治に改められ、弁事伝達所、倉敷県へ、そして政府の許可を得て改築するように働きかけたがうまくいかなかった。

花子さん:そこで、高松藩の松崎渋右衛門や倉敷県庁の島田泰雄の支援が得られたのね。

太郎くん:佐太郎自身は「もし失敗したらわたしが切腹して謝る」覚悟があったみたいだね。明治2年(1869)9月工事は開始されたが、丸亀藩の反対でうまく進まず、彼は再度、倉敷県庁に嘆願書を出している。やっとのことで、倉敷県庁の伺いに民部省、大蔵省の指令が下り、工事を着手する運びとなった。工事はその後順調に進み、明治3年(1870)3月に石穴が貫通、6月に築堤が完成した。人夫は合計144,996人と総工費は38,000円で、佐太郎も私財1万数千円を投じたそうだ。

花子さん:立派な方ね。

 

花子さん:堤の東端の休憩所の所に歌碑が建っているわね。(写真③)

写真③ 松崎渋右衛門佐敏(すけとし)辞世の歌碑     (本人撮影)

 

太郎くん:彼は満濃池の修築事業にかかわりながら、常に死を覚悟し、辞世を用意していたようだね。「君の為 國の為には 惜しからじ 仇に散りなん 命なりせば」(写真③)という内容だ。この碑は渋右衛門の御子息の自宅、高松市片原町に建立されていたが、片原町再開発事業により移転となり、満濃池土地改良区が寄贈を受けたものだそうだよ。

花子さん:どんな事をされた方なの?

太郎くん:彼は高松藩の執政で農政長も兼ねていた。長谷川佐太郎を支持しており、明治2年(1869)6月、彼と共に満濃池を視察した。その結果、旧堤防の西隅が自然の大岩盤であることに着目し、ここに隧道を掘り抜いて底樋にすれば、揺替普請の必用がなくなり、堤防の決壊も免れると確信したそうだ。

花子さん:松崎さんは判断力、実行力のある方ね。でも、他の藩は納得してくれたの?

太郎くん:多度津藩や丸亀藩は反対していたけど、高松藩が中心で事業を進め責任を持つということで、協力したようだ。しかしながら、工事着手前の9月8日、彼は高松藩内の内訌(彼は勤王家で守旧派との間で)によって城内桜の馬場で謀殺されたそうだ。43歳の生涯であった。とても残念でたまらないね。

花子さん:でも、なぜ丸亀藩と多度津藩はそこまで反対するの?

太郎くん:両藩とも高松藩より池の受益地が少なく、工事の費用分担や先導者など微妙な問題があったみたいだね。そんなか、彼は反対派を説得、推進した立役者なのだ。そこで、佐太郎は明治5年、神野神社の境内に松崎を祭る神祠を建立した。現在、神社に向かって左側奥にあるのがそれだよ。昭和になって佐太郎も合祀されたそうだね。(写真④)

写真④ 松崎神社(手前) (本人撮影)

 

花子さん:軒原さんはどこの方で、何をした人なの?

太郎くん:彼は寒川郡富田村の庄屋であり、田面村の掛け井手から弥勒奥池の石穴を貫通する穿削工事(105間余り:189m)に成功した技術者だそうだよ。(写真⑤)

花子さん:その方がなぜ、満濃池の修築にかかわったの?

太郎くん:高松藩の執政職の松崎渋右衛門が彼の実績を認め、満濃池の底樋穿盤御用掛に命じたそうだよ。もちろん、実測計算などの頭脳的な協力者であった富田村の萩原栄次郎や田面村の多田信蔵のことも忘れてはならないと思うよ。石穴の延長は30間5尺(50m余)で、両端口から掘り始め、寸分も違わず貫通させたそうだから神業だよね。

花子さん:現在もその隧道が使われているらしいけど、私もその水門の出口を見たことがあるわ。大きさを調べると、間口3.5m、高さ4.2m、底樋管の全長197mだったと思うけど、工事は大変だったでしょうね。(写真⑥)

 

写真⑤ 軒原庄蔵の銅像(さぬき市「みろく自然公園」内) (本人撮影)

写真⑥ 満濃池の水門(樋門)(6月15日のゆる抜き当日の様子:5t/秒の放水を1週間程続け、天候や稲の生育状況に合わせて調整する。令和2 年6月16日付『四国新聞』より) (本人撮影)

 

 

花子さん:あまり聞かない方ね。

太郎くん:彼は那珂郡金蔵寺村の豪商で、先祖は南朝の楠木正成の一族和田和泉守の流れを汲むとされており、数代前に讃岐に来て農業を始めたそうだ。

花子さん:そんな方がなぜ満濃池の修築にかかわったのかしら?

太郎くん:安政元年(1854)、たまたま満濃池が破壊して農家が困っているのを見て、長谷川佐太郎と協力して修復事業に尽力したそうだ。そして、砂糖の製造と販売で財をなし、巨額の私財と労費を惜しまず竣工に寄与したようだよ。

花子さん:とても立派な方ね。でも、具体的にはどんな事をされたの?

太郎くん:当時は幕末で、幕府も各藩も財政がひっ迫していたので良い返事がもらえなかった。そこで、独自に金策に努力し、大阪の豪商と借款の確約を取り付けたようだ。でも、高松藩は同意せず、水泡に化したそうだね。

もう一つは、慶応元年(1865)5月、密かに知人を通じて、朝廷に嘆願書をだし目的を果たそうと試みたことかな。仕様見積書には、弥勒池同様に生岩を掘り抜くことや資金の用立てのことも記したようだけど、願い入れ不十分で天領の人を一人加え図面書類も揃えて再願するよう返答されている。(写真⑦)

花子さん:そしたら、この方の石碑はないの?

太郎くん:池堤にはないけど、下記の写真⑧のように、和泉虎太郎ゆかりの石灯籠がJR琴平駅前にあるよ。本当は、もう少し評価されてもいいと思うよ。

写真⑦ 和泉虎太郎が考えた「満濃池竪樋底樋五十一歩之図」(和泉豊成所蔵資料、香川県立ミュ-ジアム保管)の模写図(筆者)

写真⑧ 和泉虎太郎寄進の石灯籠(正面に、「和泉虎之助正清」/虎太郎に改名前の公称名と、「那珂郡金蔵寺村」と刻まれている。) (本人撮影)

 

 

花子さん:失礼だけど、この方も聞いたことがない人だわ。

太郎くん:倉敷県庁(満濃池地と池御料三か村は倉敷県の所管/幕府領だった故)の役人で参事をされていたようだね。長谷川佐太郎から出された嘆願書が採用されたおり、彼を支持し、明治3年2月5日、島田泰雄が池御料を訪問して会議を開いようだ。この時、至急築堤工事に取り掛かること要望する高松藩と、慎重に対応すべきとの丸亀藩の意見の対立があったけど、彼の説得でようやく2月23日から築堤工事に着手することができたそうだ。

花子さん:5人とも立派な方ばかりね。そのおかげで、今の満濃池があるのね。

太郎くん:それから、満濃池の堤東端の所の「真野池記」(写真⑨)を知っているかな?

写真⑨ 石碑「真野池記」明治8年9月建立 (本人撮影)

 

花子さん:見たことはあるけど、どういう意味の石碑かはわからないわ。

太郎さん:これは、幕末1854年(嘉永7年/安政元年)7月に決壊した満濃池は明治三年(1870)に再築され、これを記念して建立された石碑(顕彰碑)だそうだ。碑文の内容は、初めに平安時代における空海の満濃池再築の業績に触れ、さらに江戸時代初期における生駒藩主高俊の家臣西嶋八兵衛による再築をたたえている。続いて、江戸時代後半から幕末にかけての度重なる修繕の苦労と底樋の石造樋管工事、安政元年(1854)の決壊、これに伴う甚大な被害のありさまを述べている。後半では、この復旧にかかわった高松藩主松平頼聰(よりとし)と、復旧に奔走し底樋の石穴方式を推進した執政松崎渋右衛門の功績をたたえ、今一度空海の徳に感謝し、「真野池は池の大王なり」として締めくくっている。

花子さん:なるほどね。池堤の東西の端にはそれぞれ意味のある石碑が建っているのね。

 

歴史の陰に隠れた知られざる「偉人」たちによって、現在の便利で豊かな暮らしがあるんですね。

片岡さん、ありがとうございました。

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