第10回 ブログ版 郷土史講座「満濃池シリーズ9」

まだ暑さは残りますが、夜などは窓から入る風もひんやりとし、薄い夏ぶとんでは肌寒く感じるようになりましたね。

これから秋が深まるにつれ、食欲、芸術、読書と、新たな楽しみも増えてきますね。

さて、ブログ版の郷土史講座も10回目を迎えます。

満濃池について、さらに掘り下げて探求していきますよ。

講師はお馴染み、片岡孝暢さんです。

 

第10回ブログ版 「郷土史講座」 ~満濃池シリ-ズ9~

<満濃池の住所や地名からひもとく謎!>

今回は、満濃池の名前や地名の視点から、今一度歴史を振り返ってみました。そこで、二人が満濃池の住所や名前をひもとき、そこに住む人々の歴史や意味を考察しました。

 

花子さん:満濃池の住所は、どうなっているの?

太郎くん:現在は、池の大部分が「香川県仲多度郡まんのう町神野(かんの)」、そして池の一部分(南東部の五毛地区と南西部の森林公園側の池端と森)は、それぞれ同町の吉野(よしの)地区と七箇(しちか)地区になるよ。また、古代は「讃岐国那珂郡神野郷」だよ。

花子さん:きっと、「神野」という地名や「まんのう」という町名と満濃池の名前が関係していると思うわ。

太郎くん:そうだね。でもその前に、香川県から少し行政単位の変遷を見てみよう。香川県という言い方になったのは、いつ頃か知っている?

花子さん:もちろんよ。明治になってだと思うわ。それまでは、讃岐国と言っており、明治4年(1871)、廃藩置県があって香川県になったと思うわ。

太郎くん:そうだよね。その讃岐という国名は、『古事記』や『日本書紀』に登場している。大化の改新の詔によって、国・郡の制ができ、大宝律令によって、讃岐国には11郡ができたとなっているよ。(『延喜式』)讃岐国は初め国司が治めており、最初の国司が大宝年間、満濃池の築造のとき出てくる道足朝臣(みちもりあそん)だね:「萬濃池後碑文」)。

花子さん:すると、11郡のなかに、那珂郡があったのね。

太郎くん:そうだよ。そのときの地図①「古代讃岐郡郷図」だよ。

太郎くん:そして、明治32年(1899)7月1日郡制が実施され、那珂郡と多度郡が合併し、仲多度郡となったようだ。

 

地図①  古代讃岐郡郷図(木原薄幸・丹羽佑一・田中健二・和田仁『香川県の歴史』県史37山川出版から引用)

 

太郎くん :まんのう町は、平成18年(2006)3月20日、旧3町の満濃町、仲南(ちゅうなん)町、琴南(ことなみ)町が合併してでき、今年で15年目になるね。

花子さん:満濃池は旧満濃町(一部旧仲南町)にあるから、旧満濃町の行政単位の歴史はどうなっていたのかしら?

太郎くん:明治23年(1890)、真野(まの)村、岸上村、東七箇村、五條村が合併し「神野村」となった。そして、昭和30年(1955)4月、四條村、吉野村、神野村が合併し満濃町となり、同年7月高篠村が、翌年長炭村が加わって満濃町になったみたいだね。この時、町名の満濃が満濃池に由来していたのだと思うよ。

花子さん:真野村や吉野村は、前記の地図①中の真野郷や吉野郷と言い方が同じね。

太郎くん:そうだね。古代のそれぞれの郷の遺称地だよ。そこで、満濃池は真野郷に属していたので、真野池と呼ばれていたようだ。

 

花子さん:すると、満濃池のあたりの地域はどう呼ばれていたの?

太郎くん:先に出てきた東七箇村というのは、満濃池周辺の山地、池尻・三田・岡・葦谷・神野山と池南部の五毛神社跡地あたりのことだよ。いわゆる、池所と堤防下の池下、満濃池から南の五毛に続く池尻、そして西に続く三田の池の水掛かりの端である池尻一帯のことを指すのだと思うよ。そこで、このあたりの地域を示したのが地図②だよ。

地図② (国土地理院の地形図「善通寺」「福良見」「滝宮」「内田」1:25,000に加筆し、掲載。尚、満濃池内の南東端の点線は第三次嵩上げ工事前の池端を示す)

 

花子さん:なるほどね。でも現在の地名として残っている池尻は、池下の西側あたりになっているわね。今、池尻で人が住んでいるのはこのあたりだけだからかしら?

太郎くん:そうかもしれないね。ただ、神野山の神櫛(かんくし)神社跡がある所も「大字神野字池尻」となっているよ。池下の古老の話によると、池地や池の端の池尻で住んでいた人々が、今の池尻地域へ移り住んで、池尻と名付けたようだね。(西嶋八兵衛の満濃池再築の時)もちろん、ここ以外にも、他の地域や現在の五毛地区へ移り住んだ人もいるらしいよ。

花子さん:そしたら、真野郷から真野村と満濃池及びその周辺が分かれたのはいつ頃?

太郎くん:平安後期の元暦元年(1184)、満濃池が決壊した後は放置され荒廃しており、鎌倉、室町、戦国時代を経て、寛永年間の西嶋八兵衛による池の再築まで、「池内村」と呼ばれるようになっていたようだ。

太郎くん:そして、寛永19年(1642)、満濃池地は「幕府領七箇村」となったようだ。これが、前述の東七箇村(現在の仲南地区の七箇より東にあるので、明治8年池所の七箇村が東七箇村になる。)のことだよ。我が家の曽祖母の戸籍謄本をみてみると、明治25年の場合、仲多度郡神野村大字東七箇となっていたよ。ただし、池下(池の外)には「桶外村(ひのわき)」があったようだね。東七箇村のその後のことは前述のとおりだよ。

花子さん:そうすると、満濃町になったとき、東七箇村は「大字神野」という住所・地名になったのね。それが今でも、「神野」という地名・自治会名の呼び名になっているということね。

 

花子さん:それでは、最初に神野池、神野郷と名付けたのはだれなの?

太郎くん:今の定説だと、武国凝別命(景行天皇の皇子)の系統である御村別(みむらわけ)の子孫が、伊予から移り住み、この地を自分たちの住んでいた伊予の神野郡(新居浜・西条)に因んで神野郷と名付けたようだ。

花子さん:でも何を見ると、神野郡と呼んでいたことがわかるの?

太郎くん:それは、『続日本紀』『日本紀略』『日本後紀』に書かれているよ。『日本後紀』でのその箇所をあげると、「嵯峨天皇」の大同四年九月二日「乙巳、改ニ伊豫國神野郡一爲新居郡一以レ觸ニ上諱一也、」と記載されているよ。つまり、伊予国神野郡は嵯峨天皇の諱(いみな:神野、賀美能)に触れるため、新居郡と改めた、ということだ。だから、この地でも「神」(しむ)の字を同音の「真」(しむ)に改め、神野郷から真野郷になったと思うよ。そして、神野池も真野池に改めたのだろうね。

『仲多度郡史』によれば、神野社(神)は推古帝の御宇(在位:593年~628年)、営社而遷座され、郷名もこの神野神の社號より起これるとしており、「此の池は大宝年中国守道守朝臣の創築する所にして初め神野池(カミヌノ)と称す」とある。ただし今は、「カンノ」と呼んでいるけどね。(『日本後記』「桓武天皇・延暦十八年六月十五日の条」も参照)

花子さん:なるほどね。でも、矢原氏の先祖と云われる神櫛王(景行天皇の皇子)も「神」という名前なので、何か神野と関係があるような気もするわ?

太郎くん:うーん、そこは謎だね!ただ、満濃池の誕生秘話と関係しているのかもしねないね。

 

(尚、満濃池は平安時代や鎌倉時代、万農池、萬濃池、万乃池、万能ノ池、満農ノ池、万ノ池、万之池等と記されています。満濃池と書き、「まんのう」と呼ぶことが一般的になったのは、寛永年間(1624~1644)の再築以後からのようです。江戸時代は、讃岐国内で一番大きかったので、満濃太郎(次郎・神内池、三郎・三谷池)の愛称でよばれていたようです。そして、明治12年(1879)からは「満濃池」に統一されたということです。)

 

<満濃池の誕生秘話>

花子さん:先の満濃池誕生秘話ってどういうことなの?

太郎くん:満濃池を最初に作ったのはだれかということだけど、第3回と5回でも少し触れたけど、九十九谷の所に「天真名井」と呼ぶ湧泉(出水)が5カ所あり、その中の三田中谷にある湧泉は50町歩以上の水田を灌漑することができるほど豊富であるという。それを中心に作ったのが最初の池ではないかと思うよ。

花子さん:すると、それが大宝年間(701~704年)讃岐の国守道守朝臣が満濃池を築いたということかもしれないわね。

太郎くん:僕もそう思うよ。讃岐の国守がだれかはさておき、少なくともこの地域の有力な豪族が池の築造にかかわっていたのは確かだと思う。そうしないと実際には池は作れないからね。

花子さん:そしたら、大宝年間の頃、この神野地域あたりでの有力豪族だと考えられる御村別(伊予から移ってきた)の子孫なのか、もしくは矢原氏の先祖なのか、はっきりとした記録が残ってないけど、どちらかの一族ということね。また、両方が協力して築いたのかもしれないわね。

太郎くん:たぶん、御村別の子孫の身(むくろ)は、大化の改新(645年)の頃、那珂郡の郡家(今の丸亀市)へ主帳として移転していたと考えられるので、僕は矢原氏の先祖の益甲道麿(道麻呂)あたりが関わっていたのではないかと思うのだけど、あるいは太田亮氏(『姓氏家系大辞典』による)の言うように、御村別の分派により作られたかもしれないね。御村別の子孫のなかでも神野に居残った人達がいたかもしれないし、その時の池は現在の池地内の天真名井の湧泉あたりを中心に造られた小規模の池だったかもしれないね。

太郎くん:矢原氏の先祖は最初、現神野寺の西の池尻(写真①)附近に、旧矢原邸を建てたのではないだろうか。その北真上の神野山に「神櫛神社跡」があるよ。その後、池下「岩の本」の「矢原邸(の森)跡」(第4回を参照)と云われている所へ移ったのかもしれないね。

 

写真① 池尻の旧矢原邸跡と思われる所?(三田手前)本人撮影

写真② 池下の矢原邸の森 本人撮影

花子さん:その後、空海さんの再築までの間に、池の築造に関しては何か行われていないの?

太郎くん:天平宝字7年(763)讃岐は旱魃であり、この頃讃岐国の条理計画が完成したようだ。想像だけど、そこで矢原氏の祖先と云われる酒部黒麿が満濃池の築造(当時の讃岐国守:百濟(王)敬福に支援を依頼したか、逆に命令されたのではなかろうか)に一役を担ったのではないだろうか。神野神社由緒には、天平宝字8年(764)に勅命を受け、天真名井の下流に堤を築いて(この時の堤の位置は空海が再築したあたりだと思われる)天真名井の池と名付けたと伝えているようだ。確かに、『続日本紀』によると、天平宝字8年(764)9月1日、淳仁天皇は各地で洪水や早害が思いがけない時に起こっているのは、国司や郡司の民を使役する時期が適当でなく、堤・堰を修造しなかったための過失であるとし、賢い人物を速やかに登用し、人民を苦しめ煩わせてはないないとの勅命を下している。

また、天平宝字8年(764)に、淡海真人三船(おうみのまひとみふね)が造池使として、近江国に行って溜池を修造したという事例も『続日本紀』に出てくるからね。

花子さん:これらのことを簡単な絵図に表すと、さらによく分かるかもしれないわね。

太郎くん:それではさっそく、絵図を作ってみよう。(絵図①)

 

絵図① 嘉永年間の「濃池営築図」を参考に筆者が作成した想像図

 

花子さん:これだとよくわかるわ。あとは、年表にもできるといいわね。

太郎くん:でもこのことは、想像、推論の域を出ないから、萬濃池後碑文の記す大宝年間、神野神社記の記す天平宝宇8年の間には約60年間のずれがあるので、これをどう解釈するか今後の研究課題だと考えているよ。

 

 

満濃池シリーズも、回を重ねて9回。

知れば知るほど歴史の奥深さを堪能でき、たどり着いた答えの先には、さらに掘り下げるべき課題が出てきて…。

本当に、歴史ロマンに終わりはないですね。

片岡さん、ありがとうございました。

 

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