第11回 ブログ版 郷土史講座「満濃池シリーズ10」

2020年の5月から始まったブログ版の郷土史講座も11回を数え、満濃池シリーズは10回目の節目を迎えました。

一つの池をめぐる歴史秘話が、壮大な時代絵巻になったようですね。

今回は満濃池シリーズの集大成です。

知られざる郷土の歴史について教えて下さるのは、片岡孝暢さんです。

 

第11回ブログ版 「郷土史講座」 ~満濃池シリ-ズ10~

<あなたは現在の堤から、景観がどのように見えますか?>

まだまだたくさん探究したいことがあるのですが、今回で、「満濃池シリ-ズ」に一応の区切りをしたいと思います。太郎君と花子さんの「対話・問答」を通して、国の名勝としての満濃池の存在や意味を問い直してみましょう。

 

花子さん:堤からの満濃池の景観は、いつ見てもすばらしいわね。特に春、東北側の池畔周辺ロードに咲いた「河津桜」越しに見える満濃池は見事だったわ。(写真①)

 

写真① 池湖畔の河津桜(本人撮影)

 

写真② 取水塔から見た朝日(本人撮影)

 

写真③ 五毛から見える象頭山(本人撮影)

 

写真④ かりん会館下公園から見た堤の雪景色(本人撮影)

 

太郎くん:そうだね。堤から尾瀬山や大川山、竜王山まで見えるからすばらしい眺めだね。僕は、取水塔側の堤から見る朝日(写真②)や、五毛の方から満濃池の向こうに見える象頭山(写真③)、そして堤の雪景色(写真④)も好きだよ。

太郎くん:今は多くの観光客や小学生が学習にやってきているね。また、地域の方が遊歩道を散歩したり、親子でサイクリングしている姿も見るし、写真を撮ったり、絵を描いている人もたくさんいるよ。

花子さん:ところで昔は、満濃池はどうだったのかな?

太郎くん:平安時代の『今昔物語集』には、「讃岐国那珂郡に万能の池という非常に大きな池があった。・・・とても池には見えず、海のように見えた。池は底知れぬほど深いので、大小の魚は数知れず、また竜の住処となっていた」と記されているよ。

太郎くん:また、江戸時代、高松藩の八代藩主松平頼儀(よりのり;襄公/じょうこう)が、寛政8年(1796)の巡視の時、満濃池にも立ち寄り、その時の様子が記録に残っているよ。「十一月二十一日・・・薄暮に満濃池に行き堤に莚を敷き、燈をともして池を観た。藩内に大きな池が三つあるが、これが最大であると言われた。・・・」、翌日も再び満濃池を観ている。                     (『仲南町誌』より引用)

花子さん:今でいう調査だけど、花見という面もあったのね?讃岐名勝図会中の絵図「池宮」にも、いろいろ歌が書かれていたし、明治の初めには堤防の上に桜や楓、つつじやさつきが植えられていたみたいね。

太郎くん:それに、『讃岐名勝図会』によると、本文の追記部分で「爰に於いて遠近の諸人、池遊覧せんとて、日毎に弁当・□□を□え、爰に至る者の□□□せりしかば、堤の辺に桟敷・机木を設けて遊客を憩しめ、酒肴箸を商う者もあり。□□村民の潤いとなせるは、是も窮民を救い給う一助なるべし」と記されている。たぶん、近くから遠方までの人々が、満濃池を遊覧するために、弁当等を携え常に絶え間なくやってきては、堤の傍らに桟敷(さじき)や机を置き憩いの場として楽しんでいる。そこには酒の肴を商売する者もいて、遊び客も商売人もお互いが助け合っている、というような意味だと思う。とても風情があっていいね。(尚、文中の□は解読しにくかった箇所です。)

花子さん:満濃池は農業用水や治水としての役目はもちろんだけど、今も昔も憩いや観光地、学びの場として老若男女を問わず多くの人々から慕われてきたのね。

 

花子さん:今は、香川用水を引いて早明浦ダム(池田ダム)や吉野川の水を分けてもらっているけど、讃岐の人々は、「水との闘い」の歴史だったということ、水の大切さを忘れてはならないわね。昭和三十年頃まで、吉野地区の方が公平に水を配分するために、「線香」を使って時間配分を決め、次々と順番に田に水を入れていたという話を聞いたことがあるわ。これも先人の知恵の一つだと思うけど、昼夜を問わずずっと見ていないといけないから大変だったと思うわ。

太郎くん:そうだね。吉野地区の隣の真野地区では、(地元の古老の方の話による)人々が日常で使っているものを利用していたそうだよ。親線香と子線香を炭コタツに入れ、それを「とうけ」の中に入れて(写真⑤、⑥)その火から子の線香がもらい火をする。そして、一反あたり一本半:一本約四十分とし、帳面を見ながら本数を決めて実施しこの線香水を行っていたそうだ。まず下流の人が、水が来ないとの申し出があると、水親は線香番と水入り切り番の二人に線香桶と帳面、拍子木を持たせて「線香水」を行っていたそうだよ。

 

写真⑤ 真野地区の古老の方の話をもとに描いた線香箱(筆者)本人撮影

 

写真⑥ 真野地区で使用していた同じ線香(緑が親線香)    本人撮影

 

太郎くん:現在は満濃池の水を農業用としてまんのう町、琴平町、多度津町、善通寺市、丸亀市の2市3町の地域の人達が使っているけど(受益面積約3,000ha)、いま一度、水事情の厳しかった時代の先人の苦労や知恵に思いを馳せ、限りある水の有効利用に取り組んでいかなければならいと思うよ。また、第三次嵩上げの際、永年池内に住んでいた五毛集落(二十八戸の家庭)の人々の移転が余儀なくされ、立ち退きに協力してくれたこと、そこでの生活を存続できなかった人々の思いも決し忘れてはならないね。(「竣工記念碑」の台座に移転を余儀なくされた方々の名前が刻まれています。第9回の写真⑫と今回の写真⑦、⑧)

 

写真⑦ 池に沈んだ五毛岡地区の民家跡(本人撮影)

 

写真⑧ 岬の桟橋跡から見た五毛地区(池中:元の山神社跡、山の麓:現在の五毛集落、右手前岸辺:岡集落)  本人撮影

(尚、場所については、第10回ブログ版の地図②を参照してください。)

 

太郎くん:また、満濃池とは直接関係ないけど、満濃池の東北岸より北部一帯に広がる高原状台地に「国営讃岐まんのう公園」があり、公園内に「竜」の名称がたくさんあるよね。実は、ここは「龍頭(りゅうず)」(このあたりが伝説に出て来る満濃池の龍の休み場であったことに由るとか、又は武道口の東側あたりにある大きい岩が龍の頭に似ている所から来たとか言われている)という地域・集落(最盛期27戸)があり、入植と開拓(戦後の引揚者対策も含む)の歴史をもった地区であった。明治、大正時代は旧陸軍の演習場となり、昭和時代は葉タバコを中心とした畑作、そしてため池や満濃池からのポンによる揚水で水田も行っていたが、昭和40年頃の開発ブ-ムにより(株)満濃農園の買収で離農し、その後昭和59年国の計画によって公園となったようだ。(吉井正雄氏「“龍頭”今昔」を参照)

それから、環境という視点からも動植物の生態系保持や森林保全にも努めていかなければならないね。また、満濃池の水そのものも直接・間接流域の森林と無関係ではないから。

花子さん:そういった意味でも、満濃池の堤の上に立つと、千三百年の歴史の重みを感じるわね。そして、これからもこの満濃池をみんなで大切に守っていかなくてはならないわね。 

太郎くん:そうだね。それから、神野寺南西側の小高い山上(神野山)に(ミニ八十八か所巡りの途中の山上)神櫛(かみくし)神社跡があり、そこの石碑にルーズズベルト大統領の名前が刻まれていて驚いたよ。次の写真⑨(左端)がそれだよ。

 

写真⑨ 神櫛神社石碑(本人撮影)

 

花梨さん:でも、どうしてルーズズベルト大統領の名前が刻まれているのかしら?

太郎くん:矢原氏の子孫の方に話を聞いてみると、明治37年(1904)、日露戦争が始まったのだけど、長期戦になることを畏れた両者は、セオドア・ルーズズベルト大統領の斡旋によって、明治38年(1905)、アメリカのポーツマスで日本全権小村寿太郎とロシア全権ウイッテはポーツマス講話条約に調印したと。当時、「平和」を強く望む矢原氏の想いから、この二人の業績に感謝して石碑に名前を刻んだと聞いている、と言われていたよ。“満濃池から世界が見える”と思ったね。

花梨さん:なるほど、そういう意味があったのね。すばらしい方ね。

 

太郎くん:最後になったけど、満濃池を見下ろせる西の高台に、「悠々麗澤」(ゆうゆうれいたく)という4字が刻まれた御柱(石柱)が建っているのを知っているかな?これは、「遥か久しく急がず豊かに潤い恵にあふれ、人々に恩恵を与え続ける美しい景観」という意味だそうだけど、僕はこの言葉がとてもいいなあと思うよ。

 

写真➉ 満濃池西高台(神野山)に建つ御柱(本人撮影)

 

花子さん:これまでの満濃池の学習を通して、本当に満濃池(郷土)の魅力の再発見ができて楽しかったわ。ありがとう!友達にも伝えたいわ。

太郎くん:僕も一緒に学習できて楽しかったよ。ありがとう!少しでも多くの方々に、満濃池の魅力を知ってもらいたいね

 

 

満濃池をめぐる歴史浪漫の旅、いかがでしたでしょうか。

ハイキングや行楽をかねて、ちょっと池まで足を運んでみたくなった方もいらっしゃるのではないでしょうかね。

片岡さん、貴重なおはなしをありがとうございました。

 

 

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